感動する対象を教えてもらう人々【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第16回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第16回
【人間は自分たちの作品に感動する】
「自然」は、遠くへ出かけていって眺めるものだ、と思っている人がいる。しかし、それは勝手な思い込みだ。自然はどこにでもある。身近にいくらでもある。たとえば、大雨後の川が泥で濁ったり、ペンキが剥げて鉄が錆びたりするのも自然である。人工的なものは、完成時には整然としているけれど、しだいに劣化し、壊れ、崩れ、自然に返る。生物が老いて死んでいくのも自然だ。
人間は、一時的に自然に逆らって秩序を作ろうとするが、自然がこれを許さない。製造されたものは不均質であり、自然はそれを均質なものへ戻そうとする。汚れていく、衰えていく、雑然となっていくのが、自然なのである。
僕は一年中庭仕事に勤しんでいるけれど、これは自然を愛でているというよりも、自然に抵抗しようとする行為だ、と自覚している。落ち葉掃除をしたり、草刈り、芝刈りをするのも、整然とした人工的な状況を目指しているわけで、農業や林業、あるいは工業と同じく、自然破壊といえる。
人間の意識が「美しい」「綺麗だ」と感じる対象は、自分たち意識による造形物であり、自分たちが予測したとおりの結果を愛でる。自然の中にあっても、けっして自然そのままではない。たまたま人間が予測したとおりになっていた自然の瞬間を見つけて、「素晴らしい」「雄大だ」と指摘しているにすぎない。おそらく、「人間が美しいと感じるとおりの自然であってほしい」という願いから生まれた心理だろう。
よく用いられる表現として、自然の山々が「絵に描いたように」美しい、といったフレーズがある。また、美しさを示す表現として、「幻想的」といった言葉もよく使われる。この場合、絵というのは人工であるし、また幻想も人間の意識が創り出すものだ。つまり、自然の中に人工的な要素を見出して、美しいと感じている証左といえる。
都会は人工物を集積した場所である。そこには人間が集まる。魅力があるから集まってくる。当然ながら、大勢の人を魅了する景観が作られなければならない。人間が無意識に望んでいる「美しさ」があらゆる方法で具現化される。それは、自然とはかけ離れたもの、似ても似つかない整然とした秩序である。都会に自然を取り込もうとして、樹を並べたり、建物にも植物を後付けしたりしても、アクセント程度のアクセサリィでしかない。
結局は、自分たちが考えたものが美しい、と感じるように人間の感覚はできている。自分たちがデザインして構築したものに感動する。あからさまな身贔屓であり、考えてみれば当然である。「思いどおりになった」という喜びは「自由」を感じることと等しいのだから。
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世の中はますます騒々しく、人々はいっそう浮き足立ってきた・・・そんなやかましい時代を、静かに生きるにはどうすればいいのか? 人生を幸せに生きるとはどういうことか?
森博嗣先生が自身の日常を観察し、思索しつづけた極上のエッセィ。「書くこと・作ること・生きること」の本質を綴り、不可解な時代を見極める智恵を指南。他者と競わず戦わず、孤独と自由を楽しむヒントに溢れた書です。
〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。